1. 「経営計画書を、必ず自らの手で書き上げることこそ、社長として絶対にやらなければならないことである」とは
経営計画書を社長が書くべきである。という主張に対して一倉先生は本書の中で6項目あげている。本日の物はそのうち5つ目である。
1999年以前の中小企業の社長はよほど書かなかったのだと思う。経営計画書も実は契約書の一種である。上場会社に至ってはステークホルダーとの約束事になる。その当時の文化背景を想定しながら今言葉の背景を探ろう。そもそも日本人は契約社会ではない。約束は契約に基づいて守るのではなく、人として、道徳心で守るものが粋であるとさえ考えられている。まずここを正さないといけない。
2. 企業理念と経営計画書の関係
一倉先生はリーダーシップのために経営計画書が必要であるとしている。それも一理あるが、会社は規約と契約で規定される。その原点が企業理念であり、経営計画書である。約束なのである。約束は約束の限りにおいて守らなければならない。つまり、そこには忖度などというものは発生しないのである。規定するということは、無駄を排除するために必要といえる。
しかし、日本人の「あいまいさ」に対する美意識と執着は根強い。海外で仕事をしたとき、契約書の原案を我々サイドで作ることとした。日本で慣れ浸しんだフォーマットを翻訳して提出した。内容的には既に協議したものであるから問題なかったが、最後の方の日本人独特の文言が先方を刺激した。
3. 習慣と慣習
「内容と異を感ずる事態が発生した際には、双方良識にのっとり協議をし、解決するものとする」という一文の意味がどうにも先方にとっては不明であった。一体何のために掲載する文章なのか?海外ではむしろ逆であり、ここに記されていること以外の一切の取り決めは発生しないという一文を載せることがあるという。いずれにしても、外国企業と取引すると事典のように分厚い契約書が出来あがるのである。そこまで必要かどうかはさておき、厳密な約束事は必要といえる。そして、それは明文化し、文章で明らかにすることが望ましい。それをしないと幅を利かせるのが、「習慣」や「慣習」という文化である。
4. 結語
確かに業界や会社などでは、ローカルなルールが存在する。しかし、それが第一義になってはいけない。なぜなら、習慣には意思がないからである。意思がなく、流れが澱む。ゆっくりと澱む流れは一見すると静かなものに見えるが、実は根深さを持っている。この沼に一度身を任せると、意思をもって変化を起こしたいときにものすごい弊害になる。それが習慣だからである。
この言葉には大いなる怠慢と頑固さが同居している。しかも一見正しささえ感じさせる。日本の成長を大きく遅らせた要因の一つであると思う。経営計画書をはじめ、意思があり、明文化されたものこそ会社の真ん中に存在するのにふさわしい。 了